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日本の塔婆(過去の履歴) 2001年6月24日以前

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1972/05月
訪問
能登妙成寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
元和4年(1618)建立。総高34.27M。
妙成寺は日像上人開山・日乗上人創建。日蓮宗寺院としては、加賀前田家寄進の伽藍がほぼ1度も火災に遭わず残されている稀有の例とされる。五重塔のほか本堂(慶長19年建立、重文)・仁王門(寛永2年建立、重文)・鐘楼(同左、重文)・経堂(寛文10年建立、重文)・三十番神堂(元和元年建立、重文)・三光堂(元和9年建立、重文)・祖師堂(寛永元年建立、重文)・書院(万治2年建立、重文)・庫裏(文禄2年建立、重文)・釈迦堂(貞享3年建立、丈六の釈迦立象を安置)・開山堂(延宝5年建立)等の伽藍が現存している。
伽藍堂名不明
なお当項目の画像は昭和47年(1972)5月撮影画像です。
当時の伽藍図
1972年訪問 山城真正極楽寺三重塔 画像は昭和47年(1972)撮影画像です。
山城禅林寺(永観堂)多宝塔 画像は昭和47年(1972)撮影画像です。
山城本法寺多宝塔1
  同        2
画像は昭和47年(1972)撮影画像です。
山城醍醐寺五重塔1
  同        2
  同        3
画像は昭和47年(1972)撮影画像です。
金堂(国宝)・薬師堂(上醍醐・藤原、国宝)・上醍醐(左は如意輪堂、桃山・重文、右は開山堂、桃山・重文)
2001/06/24 河内大聖勝軍寺多宝塔 下の太子と呼ばれる。高野山真言宗に属する。寺伝では聖徳太子が物部守屋と戦うに当たり、信貴山の四天王に祈願しその加護により勝利を得た。以上に報いるため本寺を建立したとされる。
多宝塔はご覧のように鉄筋コンクリート製で残念ながら正規のものではなく、期待はずれのものです。平和塔と称する。昭和46年(太子1350年祭)にあたり建立した。
本堂(地蔵堂)は明治21年の台風で倒壊し、昭和46年太子堂が復興した。この太子堂も鉄筋コンクリート製の趣味の悪いものです。
河内野中寺塔跡1(現状)
   同     2(礎石)
   同     3(心礎)
   同     4(現地案内板)
中の太子と呼ばれる。この地は太子や馬子の協力者であった「船史」の本拠地であり、氏寺として法隆寺式伽藍が建立され栄えたとされる。その後南朝の拠点であったため、焼亡・廃寺となる。寛文元年(1661)再興される。三重塔跡には礎石が13ヶ残存している。塔心礎は円形の心柱孔に三ヶの半円形の支柱孔を穿孔したもので、大和橘寺の塔心礎と酷似している。昭和60年発掘調査が実施され、東西13.6M・南北12.9M・高さ1.5Mの「壇上積み基壇」が発掘され、階段は東面(金堂向き)にあると判明した。いわゆる塔と金堂が向き合う野中寺式とも言われている。出土瓦から650年には塔が建立されていたことも判明。
一方5間四面と思われる金堂跡も基壇の高まりの中に礎石が現存している。現伽藍はきれいに整備され、多くの人の訪問があるようです。
河内叡福寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5(廟所)
  同        6(聖霊殿)
上の太子と呼ばれる。
多宝塔は承応元年(1652)の建立。江戸の三谷三九郎の建立。本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の3尊像、西面は大日如来。近世の多宝塔中雄大な印象をもつ塔婆です。
聖徳太子の御廟を守るため建立されたとされる。のち聖武天皇の時代に東西両院が造営され、西院が現在の叡福寺となった。現在の伽藍はいずれも近世の再建ですが、金堂・聖霊殿(太子堂・桃山末期・重文)・廟所・仁王門・浄土堂・見真大師堂・弘法大師堂・念仏堂・客殿・二天門・上の御堂・聖光明院等多くの伽藍を配しています。
なお境内古絵図(室町)には、現多宝塔位置に五重塔、東院伽藍に三重塔、現墓地になっているあたりにあった塔頭?中に三重塔が描かれています。
大和當麻寺東塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同    西塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同       8
  同       本堂
  同       金堂
  同       講堂
有名寺院の故に詳細は割愛する。
創建当時の東西両塔が現在に伝わる稀有の寺院です。西塔(国宝)が天平末期で、東塔が天平初期の様式(建立)と言われている。両塔とも尾根の中段に位置し、仰ぎ見る形になりますが、近寄れば、その木組の雄大さに圧倒されます。また一段高い場所のため、境内のどの場所からも美しい「借景」にもなるようです。
通常の平地の南面伽藍配置を無理に、尾根を取り込む北向き斜面に取り入れた配置で「何故だろう」と考えさせられます。
尾根の中段の南大門は廃絶していますが、南面する金堂(鎌倉時代・重文・桁行5間梁間4間)と講堂(鎌倉時代・重文・桁行7間梁間4間)は健在です。それと直行する形で造営された(地形から当然ですが)仁王門・曼荼羅堂(本堂・国宝・平安期・現在の外観は桁行7間梁間6間・一重寄棟造り)等の幾多の伽藍があります。さらに主要伽藍の隙間に塔頭が割りこんで建立されています。現在は真言宗の中之坊・松室院・不動院・西南院・竹之坊、浄土宗の奥院・護念院・念仏院・来迎院・紫雲院・極楽院・千仏院・宗胤胤があります。
その他當麻曼荼羅を始めとする多くの寺宝があります。
東東1:本堂から望む。東塔3:西塔から望む。
西塔1:東塔下から望む。西塔6:本堂から望む。
河内善正寺跡>
(埴生廃寺跡)
薬師寺式伽藍配置を持つ白鳳期寺院があったようです。昭和24年の発掘調査で確認された。両塔とも一辺10Mの凝灰岩切石基壇であった。東塔からは大正期舎利容器が出土。戦前は基壇の高まりが確認できたようですが、現状は共同墓地と住宅地であり、掲載すべき写真はありません。が現場の案内板写真(部分)を掲載します。
河内田辺廃寺跡1(西塔跡?)
  同       2(東塔跡?)
西面する春日神社境内に南面する形で寺跡は残されているようです。ただし春日神社周辺の寺跡は鉄条網で囲われ、立ち入り禁止の措置が採られていて、基壇・礎石等を確認することは、私ども素人では現状出来ません。(そこまでしなくてもと思いますが・・)
秦氏一族田辺史氏の氏寺として白鳳時代に建立。東西両塔を持つ薬師寺式伽藍と確認されている。東塔は塼積み基壇で美しく残り、西塔は瓦積み基壇で、両塔礎石も良く残っているとのことです。
河内国分寺跡1
  同     2
  同     3(案内板から)
長年探索されていた河内国分寺跡は、昭和45年塔婆跡がほぼ完全に発見され、確定された。ただ立地している場所は台地上の削平地であり、単純な平地伽藍では無いようです。おそらく東方の金堂院とは別に区画された塔院の中に塔婆が建立されたようです。ただし高台ですから、遠方からよく見え、荘厳さの演出効果は抜群だっただろうと想像されます。なおこの国分寺跡の訪問は、雑然とした市街地の中で何の案内も無く、大工場の裏手(南東)にあり、初めて訪問するとたどり着くのに一苦労します。(正確な地図を準備しなかったのが悪い?)
河内知識寺塔心礎

河内知識寺石碑
(旧伽藍地住宅地にあり)

知識寺は奈良東大寺の大仏造立のモデルとなった大仏を本尊としていた寺院とされる。聖武天皇等の参詣があったと記録されている。伽藍は東西両塔を備える薬師寺式といわれ、この心礎は東塔心礎と推定される。東塔跡と推定される現在地の北方山本義一氏宅東南隅の土蔵付近から出土し、現在地(石神社境内)に打ちしたもの。長径は122CMをはかり、50Mに近い五重塔であろうと推定されている。なおこの付近に北から至近距離に三宅寺、大里寺、山下寺、家原寺、知識寺、鳥坂寺と古代寺院が並んでいたようです。
2001/06/10 山城寶塔寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
再収録

寶塔寺概要

2001/05/25 山城本法寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
寛政年間(1789-1801)年代再建塔。京都旧市街で唯一現存する多宝塔。
本法寺は久遠成院日親上人が永享8年(1436)に創建。その後不受不施・折伏伝道の中心寺院として法華宗京洛21ヶ本山・法華宗京洛16ヶ本山(天文法華の乱後)の一つとして隆盛を極めた。幾多の変遷ののち、江戸期には受不施の立場に転じ、また伽藍は天明8年(1788)の大火で類焼した。本堂は寛政9年(1796)の再建と伝え、塔婆もその頃の再建と推定されている。
2001/05/20 河内金剛寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同      金堂1
  同      金堂2
  同      食堂
  同      楼門
平安期基承安3年(1173)頃建立され、慶長11年(1606)大改造されたとされる。大ぶりな塔婆で、軽快・洗練という印象はなく、重い感じを受けます。一層は一手先、上層は四手先。両層とも二重繁垂。桧皮葺き。きわめて太い相隣を上げる。
当寺は行基が創建と伝え、永万元年(1165)僧阿観が再興。承安年間八条女院(後白河上皇妹)の保護・寄進を受け隆盛に向かう。その後南北朝と深い関係を持ち、疲弊・焼亡する。後醍醐天皇の行宮所、後村上天皇行宮(摩尼院として現存)、北朝3上皇住居(観蔵院)。幾多の変遷ののち、その他多くの伽藍・什宝を今に伝える。
近世には豊臣秀頼が金堂・多宝塔・食堂・楼門等について原型を変えるような大修理及び現在みらるれるその他伽藍の大改造・新築を行う。寺一帯はかっては多数の院坊が建立されていたようです。建造物では金堂(鎌倉原型)、食堂(室町原型)、楼門(鎌倉原型)・鐘楼・御影堂その他が重文指定を受けています。
河内岩湧寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
江戸時代建立と推定されている。銅板葺き。近世風で小型塔であるが、自然条件的に不利な山中で頽転せず、良く保存されたものと感慨を覚えます。他に江戸初期本堂と本坊があります。文化庁「国宝・重要文化財大全」では建立を室町後期としている。
もとは天台宗であったが、現在はこの地方に多い融通念仏宗(明治22年改宗)。寺伝では役小角の創建と伝え、文武天皇の勅願寺であったとされる。紀伊と河内の国堺の岩湧山(897M)の北東中腹にあり、要するに葛城山系修験の霊場(行場)として維持管理されたものと推定される。巖湧とは山様が「岩湧く」であり、また法華経15品「湧出」品(山号は湧出山)に由来されると想像される。近年キャンプ場その他余計なものが行政?によって作られ、自然及び文化が破壊されているようです。蛇足ながら徒歩で参拝するなら、高野線天見から西方5-6KM(徒歩90分)がよいでしょう。岩湧山取付まで山中を舗装道が1本で通じ、その間数台の車が通行するだけで、自由に道を使えて、快適に歩けます。人には村人以外には出会うことはないようです?。
河内観心寺三重塔初層1
  同           2
  同           3
  同           4
  同         金堂1
  同            2
  同            3
  同            4
室町期文明年間(1469-86)建立。寺伝では楠木正成の建掛の塔(正成は湊川で1336年に戦死)とする。しかし永和4年(1378)賢耀の「観心寺参詣諸堂巡礼記」には「金堂(5間4面)の東に三重宝塔があり、破壊のあと之を作る」<要旨>との記載があるようです。近世の寛文9年(1669)の観心寺伽藍寺役僧坊法式控には「二重塔」(一重破壊、残る一重萱葺き)との表現があるそうで、建掛の塔という認識ではないようです。
現状一層の枓供までが残り(天井はない)、垂は竹で、屋根は茅葺で宝珠を乗せる姿です。大日如来を本尊とする。堂内四仏(弥勒・宝生・釈迦・薬師)重文は現在霊宝館安置。
当寺は役小角の開創、弘法大師が再興と伝える。南朝との係わり合いは太平記に譲って割愛。楠木家菩提寺(中院)。正成首塚。後村上天皇行宮。同檜尾陵・・・現存。
金堂(南北朝)が国宝。5間4面(桁行7間梁間7間)の大堂で和様を基調とした折衷様の中世の本堂として貴重な遺構とされる。本尊は国宝如意輪観音坐像です。南朝没後の勢力を維持し、観心寺伽藍寺役僧坊法式控には46坊舎及び各院支配の院坊が27見られるそうです。但し現在は主要伽藍及び仏像他什宝はよく維持されているが、院坊は多数の院坊跡と思われる跡地の残すのみで、現在2院のみが存続しているようです。
河内明王寺多宝塔1
  同        2
     (滝谷不動)
昭和59年建立。コンクリート製とはいえ、正統的な造りで好感が持てる塔です。塔は本堂等背後の山腹の斜面にあり、写真は上手に取れません。弘法大師1150年紀で、伽藍復興の一環として建立されたようです。明王寺は弘仁2年(811)弘法大師創建で、本尊不動明王は楠木正成の守護神といわれ、流行仏の様です。現在の伽藍そのものは近年復興されたようで、言ってしまえば各地にある「成田山別院」を想像していただければ・・・。
河内西淋寺塔婆跡1
  同        2
伽藍跡の現状は住宅密集地で、現西淋寺の小堂宇を残す。現山門の中左手に「巨大」な心礎(元位置ではない)のみを残す。目測高さ1.5M、正面2M強のとにかく「巨大」な心礎で五重塔心礎とされる。曽我稲目の配下の河内の文氏が建立した日本で最初期の寺院の一つとされているようで、発掘調査の結果、法起寺式伽藍配置が確認されている。
河内道明寺塔婆跡1
  同        2
土師寺五重塔礎石とされる巨大な心礎及び礎石(部分)です。南面する道明寺天満宮の正面道路沿い西に保存されている。元塔婆位置から若干西に移動されているようです。伽藍跡は住宅になっていて目に見えるものは他にはない。寺伝では推古2年(594)土師連八島が建立したと伝え、四天王寺式伽藍配置が確認されている。現伽藍は元域の北方に神仏分離により天満宮と道明寺(西方)として伽藍が維持され、信仰を集めているようです。
2001/05/04 播磨石峯寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同     薬師堂
現塔婆は室町期の文安〜応仁(1444〜68)頃の再建とされる。本堂右手の丘上に立ち、堂々たる風格の塔婆です。
法道上人の開基。太山寺と同様、限りなく摂津の国境に近い播磨の国の田舎に位置する。訪問時は開山1350周年記念で塔が開扉されていた。仁王門から本堂までの地形は明らかに多数の院坊がかって存在したことを思わせるが、現在は般若寺・十輪院の2坊で維持されているようです。
内部は朱塗りの四天柱と来迎壁があり、大日如来を安置するようです。
薬師堂は室町期の正面5間の堂で、重文指定です。
攝津蓮華寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
明和2年(1765)再建、作事は鴻池組。江戸の中期の再建ではあるが、均整のとれた美しい多宝塔です。近年桧皮が葺き替えられたようで、屋根の線も流麗です。
法道上人開基とされる。1970年代の台風で多宝塔下の平地にあった本堂は倒壊したようで、塔のみ山の中腹に独立して建っている。かっては源満仲の崇敬を受け、幾多の坊舎があり相当繁栄したと伝える。荒木村重の兵火で焼亡、豊臣秀頼のより再興するも、宝暦の失火で仁王門を除き古い建造物は残っていないようです。
摂津鏑射寺三重塔1
  同        2
  同        3
昭和47年建立。昭和の新造塔ですが、本格的な和様の塔婆建築です。後世まで残って欲しい塔婆です。鏑射山のほぼ山頂近くに位置する。兵庫の塔では比較的訪問しやすい場所にあります。聖徳太子の開基とされるが、幕末の兵火で廃寺となる。昭和35年現住の力で再興され、境内伽藍は今日も整備され続けているようです。
摂津神呪寺多宝塔1
  同        2
  同        3
昭和55年建立。総檜・彩色。高さ12M・一辺3.1M。天長8年(831)に淳和天皇妃(如意尼)の発願で弘法大師が開創したと伝える。甲山大師の名でしられ、今なお多くの信仰を集めているようです。甲山の中腹に位置する。今回約40年ぶり位で再訪しました。
摂津鷲林寺多宝塔1
  同        2
総欅・素木。鉄筋コンクリート製の箱型の位牌堂の上に建立されている。ちょうど位牌堂が基檀を兼ねている構造です。
当寺は弘法大師の開基と伝え(古義真言宗)中世には76ヶ坊を持つ大寺院となった。天正7年(1580)荒木村重方の足利義親・赤松氏等がこの一帯に陣を構え、織田信長と合戦し、信長に焼き払われたとされる。敗戦後は小規模の堂(観音堂)が存続するのみとなった。かっての院坊あとは開発が間近までせまってきているが、深い林の中に眠っているようです。(今のところキリスト教会等の私有地のようですが)
2001/04/30 摂津須磨寺三重塔1

  同        2

昭和59年(1984)建立。1辺4M高さ25M、木造朱塗り、銅板葺き。
弘法大師1140年遠忌、須磨寺開創1100年、平敦盛800年遠忌を記念。(旧塔は四百年前の文禄大地震の際に倒壊との由。)燈身が細く違和観が有る塔婆です。
真言宗須磨派大本山と称する。仁和2年(886) 開祖聞鏡上人、光孝天皇の勅命により上野山福祥寺を建立。以降源平の一の谷の合戦を始めとする戦乱・天災で数次の消滅・再建を繰り返す。現在の伽藍の基礎は慶長7年(1602) 豊臣秀頼により再興。慶長期には、花巌院、宝生坊、正堂坊、大聖院など15の塔頭があった。現在は桜壽院・蓮生院・正覚院の3院で管理されているようです。
摂津綱敷天満宮三重塔
(参考資料)
遷座1000年記念塔として昭和51年(1976)建立のようで、高さはおそらく3M前後のコンクリート製?の見るに耐えない粗悪なものです。中に入ることが出来ない模型ということとあわせて、三重塔一覧から削除します。写真はご参考までにという意味で掲載します。
播磨太山寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同      本堂1
  同         2
  同         3
  同   仁王門組物
江戸貞亨5年(1688)再建。本瓦葺き。初層には大日如来・四天王を安置。四天柱と来迎壁には蒔絵を施す。
霊亀2年(719)定恵上人が創建と伝え、皇室の崇敬も厚く、大伽藍が造営されたようです。南北朝期には僧兵も養い。41ヶ院坊が存在したようです。現在は龍象院・成就院・遍照院・安養院・歓喜院の5ヶ坊で維持されています。
本堂(鎌倉)は永仁年間(1293-99)の再建とされ、桁行7間・梁間6間銅板葺きの堂々たる大堂で国宝指定です。初期密教本堂の遺構として大変貴重なものです。その他仁王門(重文)等多くの堂宇が存在し、また建築以外に多くの重文の什宝を所有しています。
なお仁王門は解体修理の結果、楼門であったことが判明し、仁王門にその当初の軒組物の復元(部分)模型を置いています。(その写真です)
播磨如意寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同     常行堂
  同     文殊堂
  同     平面図
南北朝期至徳2年(1385)建立。高さ21.3M、一辺3.8M。本瓦葺き。三重塔では15番目の古塔です。
寺は大化元年(645)法道上人開基と伝える。天台宗。塔の他、阿弥陀堂(常行堂)、文殊堂が重文指定を受け、谷合いの樹林の中に厳然と存在している。近年の西神ニュータウンの開発が寺の3方で行われていて、この一角は自然のまま残されるようです。そう願う。
播磨名所巡覧図会では本堂は描かれていますが、おそらく近年?本堂は退転したようです。
摂津本法寺多宝塔 昭和48年(1973)建立。鉄筋コンクリート製。本法寺は本門佛立宗寺院。塔は今次の大震災で傾いたが、修復した由。
摂津六条八幡宮三重塔1
  同           2
  同           3
  同           4
  同      元仏堂(推定)
文正元年(1466)建立。本殿向かって右に南面して3面を木立に囲まれて立つ。
当八幡宮は六甲山裏西北の谷合いに位置し、長徳元年(995)基灯法師の創建で、代々足利家の信仰が厚かったようです。ひっそりとした山里でかつ地元の崇敬が厚かったためか、明治の廃仏毀釈の難を逃れて神社に現存。最近神戸の開発は2KM手前まで迫っているが、いつまでも存続して欲しい環境と塔婆です。神社そのものは郷社と言った趣でさっぱりとしていて、本殿向かって左に本地堂と思われる堂(現在は物置のようです)も残っています。
摂津徳光院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
室町期文明10年(1478)建立。元垂水の明王寺塔で明治末に川崎家の所有になり、昭和13年徳光院に寄進・移建。寺自体は明治38年に創建された禅寺(臨済宗)のようです。
有名な布引の滝がすぐ近くにあります。
摂津霊法会多宝塔1

  同        2

昭和57年建立。総檜造とのこと。かなりの大型塔のようです。ですが塔婆・霊法会とも、実態は判然としません。
塔は神戸岡本の天王山の山頂近くに存在します。阪急電車の御影を過ぎて岡本に入る間に見ることが出来ます。(JRからも見えると思います。)
甲南大学(理学部)のすぐ北東側、かつて二楽荘へ登る施設のケーブルカーが出ていたと思われるあたりに教団の詰所とゲートがあって、おそらく信徒と思われる複数の若い人に入山を拒否されます。
以下は詰所の若い人との会話から:「一般信徒も通常入れません」「ご奉仕様(高級信徒のようです)だけ入山できます」「正月3三が日には一般信徒も登山できます」「それ以外の方はちょっと・・・一般の方が入山などはとんでもない」「先代の教祖様の舎利が塔にはお祭りしています」「落慶は昭和57年11月1日です」「霊法会は霊友会から戦後分派した教団です」云々。質問には丁重にかなり正確に答えてはくれますが・・・。
以上から「日蓮宗系の新宗教」に多少知識のある人はおおむね霊法会の教義・性格の推測はつくでしょう。
という訳で、写真は麓から撮ったものです。望遠はありませんので、辛うじて識別できるものです。(肉眼ではもっと良く見えますが)、2の写真は1の×2です。
2001/04/28 比叡山法華総持院東塔1
  同           2
  同           3
比叡山東堂根本中堂1
  同          2
  同          3
比叡山西塔釈迦堂
法華総持院東塔:昭和55年に元亀2年(1571)焼失以来400年ぶりに再興。形式は木造二重方型大塔。多宝塔ではありませんが・・・中世には日本の政治及び宗教に多大な影響力をもった、比叡山の層塔と言うことで・・・収録。佐川急便はじめ信徒の寄付で法華総持院として復興。
東塔根本中堂:寛永19年(1642)再建。国宝。桁行11間梁間6間・単層・入母屋造・銅板葺・前面左右に回廊を付設。比叡山一山の根本中堂。大変深遠な大堂です。
西塔釈迦堂:南北朝期・重文。転法輪堂。桁行7間梁間8間・単層・入母屋造・銅板葺で西塔の中心をなす堂です。元円城寺の金堂で秀吉の命で移築。
比叡山横川多宝塔1
  同        2
  同   横川中堂
大正14年建立。根本如意塔と称する。山口玄洞氏寄進。再建された横川中堂のすぐ北方尾根上の中腹にある。天長年間、円仁が三昧を行い、如法写経を始めたところと伝え、長元4年(1031)円仁書写の如法経を埋葬した地と伝える。
横川中堂:横川の中心をなす堂で、昭和16年雷火で焼失。昭和46年再建。鉄筋コンクリート。
2001/04/15 山城・善峯寺多宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
元和7年(1621)賢弘法師再建塔。西国観音弟20番札所。
西山の山腹にある。長元3年(1030)年源算上人の開創と伝える。法親王が歴代入山し、また浄土宗西山派の道場として隆盛を極めたが(現在は叡山派)、応仁の乱で消亡した。
近世徳川桂昌院によってほぼ現在の堂宇が再建され、やや旧観に復した。
訪問時は観光バス・車がたくさん来ていて、物見遊山の人並みで溢れ、昔の静寂さはなく、面食らった。(春たけなかの日曜日からかも知れません。)
山城・離宮八幡多宝塔跡1
  同            2
山崎全図(都名所圖會)
同図中の離宮八幡宮
  同  離宮八幡拡大図
ここには、元治元年(1864)の禁門の変で焼失した多宝塔が存在した。その跡は珍しく、現在も礎石をほぼ完全に残している。
貞観元年(895)僧行教は宇佐八幡神をこの地に勧進し、翌年男山に遷宮したと伝え、そのゆかりで社殿を造営し離宮八幡宮と号したと伝える。その後朝野の信仰厚く、また全国油座の頭として油の製造販売権を独占したため、繁栄を極めたが、元治の変(禁門の変)で長州藩の本営が置かれ、そのため全焼した。また明治8年東海道線の敷設で境内地の北半分を喪失した。
多宝塔跡1:西側から撮影、塔跡2;東北から撮影、山崎全図;都名所圖會の山崎図の部分図、離宮八幡宮:同左の離宮八幡全体図、八幡拡大図:かって存在した多宝塔部分の拡大図。
山城・離宮八幡塔心礎1
  同          2
離宮八幡門前のカシキ石(都名所圖會)
元この地にあった相応寺(貞観年中僧壱演が創建)の塔婆(三重塔)心礎と伝える。また様式からみて、山崎院五重塔心礎を相応寺に転用したものと推定もされている。高さ約1M、幅2M強の心礎で、心柱の円形の彫りこみに、後世に扇形の彫りこみがなされたようです。
別名「カシキ石」とよばれ、都名所圖會では門前に置かれている様子が描かれている。現在は図の門の中に入り、左手に置かれている。
山城・宝積寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
江戸期の宝積寺(都名所圖會)
慶長9年(1604)頃建立。
聖武天皇の発願により行基が開創した山崎院の跡と継ぐとされている。中世には多くの塔中・子院を有する大寺となったが、戦乱で漸次衰微した。
現在は天王山麓に塔・仁王門・本堂・小槌宮(宝寺といわれる)・閻魔堂等を有するにすぎない。また寺院経営?のため?とはいえ、三重塔周りの院坊跡と思われる区画一帯が石材屋と組んで、墓地として、一面が分譲済み・あるいは分譲中なのは、いただけない。
江戸期の宝積寺:山崎全図(都名所圖會)中の宝積寺の部分図です。
2001/04/08 山城・神護寺多宝塔1
  同         2
  同         3
昭和8年建立。現在の金堂とともに山口玄洞氏の寄進による。多宝塔安置仏は有名な五大虚空蔵坐像(国宝)です。ちなみに金堂本尊もあの有名な薬師如来立像(国宝)です。
一辺6.18Mの大型塔で、かつ非常に写真の撮りにくい塔婆です。
4月8日桜の頃・日曜日・晴天にも係わらず、紅葉の頃の雑踏に比べて以外に人影は疎らで、すがすがしいものでした。教訓:紅葉の頃、高雄・栂尾・槙尾方面は避けるべきです。
2001/04/02 山城・泉橋寺塔婆心礎 かって存在した泉橋寺塔婆心礎は現在は現地には無いようです。土地の人にも聞きましたが、聞いた範囲では心礎のことは誰も知りませんでした。
泉橋寺様のお話によると・・・今から20数年前にある檀家の庭にあった。が、家の改築の時に売却された。(当時の心礎の所有関係は不明。売却は寺側に無断なのか、合意があったのか、檀家総会の意思なのかはお話では良く分かりませんでした。)現在の心礎のあり場所も神戸あたりらしいということで、その檀家は話したがらないとの事。で、その檀家の場所は寺側では「先方が喜ばない」という理由ではっきりとは教えていただけませんでした。ただし泉橋寺様は大変親切で、突然の訪問にも関わらず、色々お教しえていただき、また泉橋寺関係の大変貴重な古い写真・図版・書籍等のコピーを10数枚頂戴しました。さらにホームページでの公開も許諾頂きました。感謝いたします。
その他の泉橋寺情報はこちら。
なおHP更新後、泉橋寺様から郵送にて、関連資料を頂戴しました。
その資料を生かす意味でその他の泉橋寺情報に一部追加及び修正を致しました。(4/6)
山城・高麗寺塔婆心礎 心礎の横にあいている穴は舎利孔です。
2001/04/01 群馬・柳澤寺五重塔 2000/12/09柳澤寺様から画像使用許諾をいただきました。厚くお礼申し上げます。
天台宗比叡山延暦寺に属する。本尊は千手観音。近世、山子田村に30石の寺領があった。
現在、本堂(観音堂)・客殿・鐘楼・仁王門・表門・山王堂・書院・阿弥陀堂・五重塔等を配する。詳しくは柳澤寺様ホームページをご覧下さい。
寺伝では弘仁年間(810-824)最澄が東国布教の際、群馬太輔満行の協力を得て、船尾山麓に楊澤寺を建立したのが始まりと伝える。千葉常将の兵乱で焼失もあったが、中世には談義所も置かれ、この地方の天台宗の中では枢要な寺院であった。
近世に入っても叡山の直末として栄え、天明6年(1786)の末寺書上では15ヶ寺を数えた。今般五重塔も落慶(2000年3月入仏供養)された由、今後のますますのご発展を念願いたします。
(平凡社刊「日本歴史地名体系10・群馬県の地名」から要約。)
2001/03/24 大和・霊山寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同    (本堂)  1
  同          2
  同          3
  同          4
鎌倉中期の建立と推定される。三重塔では10指に入る古塔です。総高17M強の小型塔ですが、その姿は凛とした美しいものです。
なお初層内部全面に巨勢金岡筆とされる極彩色の壁画があることで有名です。
霊山寺は天平8年(736)聖武天皇の勅命により、行基が伽藍を建立。印度婆羅門僧菩提僊那は地相が印度霊鷲山に似ているとして霊山寺と名づけたと伝える。鎌倉時代に復興し、本堂は鎌倉中期・弘安6年(1383)改築で桁行5間梁間6間・本瓦葺の堂々とした堂で国宝に指定されている。その他室町期の鐘楼等の古建築を残している。
江戸期には21ヶ坊を数えたが、明治の廃仏毀釈で伽藍の規模半減した。近年金ぴかの堂・白金堂・・あるいはバラ園等も出来、企業経営的なようで、せっかくの鎌倉期の古建築がありながら、この姿勢は好きになれません。
大和・長弓寺三重塔跡1
  同          2
  同          3
  同  (本堂)    1
  同          2
  同          3
  同          4
  同          5
かってここには「三重塔」が存在しました。塔の2・3層は早くから失われていて、初層だけ残っていましたが、昭和11年寺を出て転々として、現在は東京高輪プリンスホテルに移築されている由です。古代の塔婆と違って心柱は一層には降りてなかったようで、心礎は在りません。
写真三重塔跡3:正面建物(薬師院)の中央背後と後の丘の間に塔跡があります。
長弓寺もかっては隆盛を極めたようで、現在も鎌倉期(弘安2年<1279>再建の桁行5間梁間6間・正面1間は向拝付き・桧皮葺の優美かつ堂々とした本堂が残されています。(国宝)富雄川の上流の山里に位置し、宅地開発が進む中、今なおひっそりとたたずんでいます。かっては20坊あったと伝えれるも、現在は山内の4院(薬師院・円生院・法華院・宝光院)で管理されています。
大和・薬師寺東西塔
大和・薬師寺三重塔(東塔)1
  同             2
  同             3
  同             4
  同             5
  同             6
  同             7
  同 (九輪)        9
大和・薬師寺三重塔(西塔)1
  同             2
  同             3
  同             4
大和・薬師寺(東院堂)
  同     (金堂)
東塔は天平2年(730)建立塔とされる。飛鳥・本薬師寺跡には東西両塔の基壇・礎石が現存している。
西塔は室町後期亨緑元年(1528)兵火で焼失。昭和56年再建塔。

なかなか素人では上手く写真が撮れません。

近年当寺は企業化?が進み、せっかくの天平の塔婆・仏像等々が泣いているようです。
このままでは、2度と行きたくない寺院の一つになるでしょう。

東院堂は鎌倉・弘安8年(1285)の再建で、桁行7間梁間4間の国宝建築です。
金堂は昭和再建堂。

2001/03/18 山城・下醍醐寺五重塔1
  同          2
  同          3
  同          4
  同          5
  同          6
  同          7
  同          8
  同          9
  同       金堂1
  同          2
  同          3
  同   三宝院勅使門
五重塔:天歴6年(931)落慶供養。平安期の五重塔で現存する貴重な遺構。全高36M。
この塔の姿と木組みは何度訪れても感動する。現存塔のうちでもっともバランスのとれた塔と評価されている。多数の国宝・重要文化財を有する醍醐寺の中で、上醍醐寺の薬師堂(今回は山上には上らなかったが・・・国宝)とともに創建時を偲ぶことの出来る貴重な遺構です。
金堂(国宝):慶長3年豊臣秀吉が再興を命じ、紀伊湯浅の満願寺本堂を移築したもので、醍醐寺本来の伝来ではないが、平安期後期の雄大な堂である。梁行7間梁間5間の大堂です。
三宝院勅使門:三宝院は醍醐寺頭塔の一つで、数多くの国宝・重文の桃山期の建築を残す。勅使門もその一つで国宝です。
醍醐寺は貞観年中に理源大師・聖宝によって創建されたと伝えられる。幾多の興亡を経て、明治維新で子院の大部が廃絶したが、現在も山上山下に多数の伽藍が存在し壮観である。
山城・安祥寺多宝塔跡1(境内)
  同          2
(門前
  同          3
(江戸期)
藤原順子の発願により建立され、定額寺に列せられた。往時寺域は背後の安祥寺山(上寺)を含め、今のJR山科駅を中心とした東西10町、南北15町に及ぶ広大なものであったようです。現在はわずかな堂宇を残すのみです。かって存在した多宝塔は宝暦9年(1759)建立で明治39年(1906)焼失。この多宝塔の本尊は京都博物館に寄託されている五智如来です。多宝塔跡は基壇と石階を残すようですが、境内は厳重に金網で囲われ、何人も寄せ付けないようで、現状は確認できませんでした。
写真1(境内):左の参道奥の建物が本堂でその右の木立の中がかっての多宝塔跡です。
写真2(門前):右の門は本坊入り口の門で、ご覧のように金網で境内には1歩も入れません。写真1はこの金網越しに撮ったものです。
写真3(江戸期):都名所図会に描かれた安祥寺多宝塔です。(部分)
山城・法琳寺跡1(石柱)
  同      2(想定地)
北小栗栖の西方の山腹にあり。この付近のみ住宅化から取り残されて田園風景を残している。天智天皇の代、藤原鎌足の長子・定恵が建立したと伝える。江戸期には若干の堂宇が在ったと伝えるも、早くから廃絶した様です。三重塔・弥勒堂・薬師堂等の伽藍があったといわれる。現状は伽藍地と思われる平坦地は竹林(竹の子畑)・雑木林となり往時を偲ぶものはない。近年建立した法琳寺跡の石柱がわずかにその地を指し示すだけです。
2001/02/22 大和・吉田寺多宝塔1
  同         2
  同         3
室町期寛正4年(1463)建立。心柱墨書銘による。
一辺3.12M、高さ12Mの小型塔であるが、非常に端正な多宝塔であろう。
当寺は「ぽっくり寺」として有名。
大和・法隆寺五重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
五重塔は金堂等とともに世界最古の木造建造物とされる。
他の諸大寺(元興寺・大安寺・西大寺・東大寺・興福寺・薬師寺等)が興亡を繰返しまた消滅して行った中で、今なお貴重な伽藍が今日数多く伝えられています。
なお、東院伽藍四脚門<東大門の突き当たり>手前の善住院跡<南側>と福園院との間の院坊跡の塀内に旧富貴寺塔残欠(三重塔初層)が保存されているが、非公開のため、一般人は近寄ることは出来ない。(下記大和・旧富貴寺三重塔初層を参照)
さらに西院伽藍から東大門に至る南側院坊の塀内には、若草伽藍跡が存在しているが、これは全く垣間見ることさえ出来ない。
大和・旧富貴寺三重塔初層1

  同             2

  同             3

元大和富貴寺塔。平安期中期の古材を残すと言われています。2、3層は早くから失われていたようです。老朽化のため昭和9年解体、昭和46年法隆寺に寄進されて再建。同時に重文指定。但し公開されていないため、一般人は拝観することは出来ない。解体の後、富貴寺には塔跡に単層の塔堂が建立されたようです。(下記大和・富貴寺塔堂を参照)
法隆寺境内の外の柵越か(遠い)、生垣の隙間越か、東院にいたる院坊の塀越(組み物から上部のみしか見えない)で垣間見ることができます。という訳で写真も上手く撮ることは出来ません。
大和・松尾寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4(本堂)
明治21年再建。承和5年(838)創建という塔婆は中世に廃絶、慶安2年(1649)後水尾天皇が再興、おそらく老朽化のため明治になって建てなしたものと伝える。
本堂は南北朝期の建立で重文。
大和・法淋寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
日本最古の三重塔は昭和19年落雷により焼失。昭和50年再建塔。
大和・法起寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
天武13年(685)発願・慶雲3年(706)建立の創建時塔婆と伝える。
宝淋寺塔場が焼失したのち、唯一現存する飛鳥時代の三重塔です。
大和・中宮寺跡 中宮寺跡は現中宮寺の東方約500Mの地点に史跡としてある。
大和・富貴寺塔堂1
  同        2(本堂)
平安期中期の古材を残すと言われている三重塔初層は、老朽化のため昭和9年解体、昭和46年法隆寺に寄進されて再建されました(同時に重文指定)。解体の後、富貴寺には塔跡に塔堂が建立されたようです。
大和・常念寺三重塔 ご覧のとうり最悪です。本来は無視すべきでしょうが、三重塔の所在として取り上げられていますので、まだ見ぬ人々のために・・・。納骨堂として建立されたようです。
山城・高麗寺塔婆跡1
  同         2
  同         3
山城町上狛に金堂・塔等の土壇・礎石を残し、また字名にその「高麗寺」という古代寺院名を残す珍しいケースです。日本最古といわれる飛鳥寺と同じ瓦を出土。法起寺式伽藍配置を持ち、白鳳時代に本格整備され、平安期まで存続したようです。
付けたり 山城・泉橋寺塔婆跡 今回は成果無し。「新撰京都名所圖会」5巻昭和33年〜40年:竹村俊則著、中に「畑中に塔心礎が残存している」記述がある。今回は見当はずれの所を探したようです。後日西チャレンジ予定。

2001/02/10

山城・三明院多宝塔1
  同         2
昭和37年建立。純木造塔で山城・金胎寺多宝塔をモデルにしたようです。
狭い境内の急斜面にコンクリートの土台を造り、その上に塔婆を建造している。そのため大変写真の撮りにくい塔婆です。
山城・鞍馬寺多宝塔1
  同         2
昭和35年建立。鉄筋コンクリート。
御室・仁和寺五重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同        金堂
寛永14年(1637)建立。高さ約33Mの復古調の五重塔です。金堂(桃山)が国宝。
たびたびの戦火で焼失を繰り返し、現在の主要伽藍は桃山・江戸期の再建ですが、広大な空間(境内)に多数の堂塔を配置し、今なお、諸大門・金堂・塔婆等の配置は古代寺院の雰囲気をもっています。御室派大本山。
嵯峨・大覚寺多宝塔1
  同         2
  同         3
昭和42年復興。鉄筋コンクリート。塔は主要伽藍の外(東北)・大沢の池の北に位置している。なお当寺には古くは五重塔・多宝塔が存在したようですが、早期に失われ多様です。大覚寺派大本山。
嵯峨釈迦堂(清涼寺)1
  同          2
  同          3
  同        釈迦堂
嵯峨釈迦堂。元禄13年(1700)江戸にて建立(釈迦如来出開帳での寄進)、元禄15年回漕移建・現在に伝わる。江戸期・関東風な装飾が施されている塔婆です。
巨大な本堂の本尊は有名な釈迦如来像(国宝)で、全国各地に清涼寺式釈迦如来として模刻さえていることかの尊像です。
嵯峨・常寂光寺多宝塔1
  同          2
  同          3
  同          4
  同          5
江戸元和6年(1620)頃建立。2世日韶上人代に京都町衆(辻藤兵衛尉直信)が献上。今なお桃山風の雰囲気を残す流麗な多宝塔です。
開山は本國寺16世日ワ辮l。上人は文禄4年(1595)東山方広寺千僧供養の折、不受不施の宗制を守り、出仕せず、本國寺を出寺して、当地に隠棲し当寺を開山する。
嵐山・法輪寺多宝塔1
  同         2
昭和17年建立。嵐山・渡月橋西岸山腹にあり。現在、初層を保護のため?か、アクリル様の板で囲ってある。これは塔婆の価値を著しく損ねるもので残念なことである。
山城・樫原廃寺八角三重塔跡1
  同              2
  同              3
1967年発掘調査で、7世紀半ばに建立されたと推定される八角三重塔等の遺構を検出。史跡指定され中門・塔・回廊跡とともに史跡公園として保存されている。
図3の想定復元図は現地案内板からのもの。
2001/01/13 美濃徳源院三重塔1
  同        2
  同        3
江戸期寛文12年(1672)建立。讃岐・丸亀藩主京極高豊の寄進と伝える。
美濃真禅院三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4(本地堂)
寛永19年(1642)建立。総高25.38M。
朝倉山(天台宗)と号する。かって南宮神社を取り巻く多くの院坊があり、真禅院もその一つであった。明治の神仏分離に際し、真禅院秀覚が中心となり、村人の絶大な奉仕のもと、本地堂・三重塔・鐘楼等22棟の堂宇を統廃合して明治4年までに移設したのが現真禅院です。
図4は本地堂(重文)です。
美濃日吉神社三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5(本殿)
室町期永正(1504-20)頃建立。総高24.7M。
塔婆は院坊跡の参道を進み、本殿の向かって右に今なお神仏混淆時代の姿のまま残っています。
図5は本殿です。
尾張万徳寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
室町中後期建立。下記性海寺塔婆をモデルにしたと推定されいる。
寺伝では奈良期創建という。建長6年(1254)後深草天皇の勅願で常円上人が中興。以来尾張真言宗の中心といて繁栄するも、現在の印象はいささか境内は荒れている。多宝塔横の鎮守社(室町)は重文。
尾張性海寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
室町中後期建立。
寺伝では弘法大師創建という。建長5年(1253)大塚の領主長谷部氏が僧良敏(熱田宮司)とともに伽藍を再興。天正年中(1573-91)兵火で焼失。慶安元年(1648)伽藍再興。
尾張長谷院多宝塔1
  同        2
  同        3
天保5年(1834)建立。堀江観音。大和長谷寺と同木という巨大な観音を本尊とする。今次大戦等たびたび被災し、現在境内は少々荒廃している。
尾張甚目寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5(南大門)
江戸寛永4年(1625)建立。
寺伝によると、白鳳期甚目(はだめ)竜麿の建立と伝える。今も古代寺院風な伽藍配置を採り、本堂向かって左に塔が配置されている。他に南大門が珍しく鎌倉期の建築です。尾張4観音の一つとしていまなお隆盛なようです。
尾張笠覆寺(笠寺)多宝塔1
  同            2
正保年間(1644-7)建立。たびたび焼失・再興を繰り返したようですが、今は尾張4観音の一つとして隆盛なようです。
尾張興正寺五重塔1
  同        2
文化5年(1808)建立。興正寺は元禄元年(1688)尾張徳川2代光友が創建。広大な境内にいまなお数十棟の建物を有する真言宗の大伽藍です。
尾張日泰寺五重塔1
  同        2
平成9年3月新造塔。木造・素木の流麗な塔婆です。覚王山と号する。明治33年(1900)タイ(シャム)国王より贈呈された仏舎利と金銅仏を安置(本尊)とするため明治34年(1904)に建立された。
付けたし 宝生院(大須観音)及び七つ寺 「その他の塔婆」→「著名な塔跡の現状」の項をご覧下さい。
2001/01/11
提供画像
池上本門寺五重塔(その2) 池上本門寺様五重塔(国の重文)は現在解体工事中です。その様子は、現在池上本門寺様ホームページ中で「五重塔解体大修理の状況」として公開されています。大変貴重なまた興味深いページと思います。
○初層水準調整○初層水準調整○初層化粧天井組立○二層軸部組立○二層四天柱組立○構造補強材組立・・等詳しく解説されています。
なお左リンクの池上本門寺様五重塔(その2)の画像は池上本門寺様のご好意で、今般、使用許諾を頂いた画像です。
2001/01/05 和泉水間寺三重塔 1
  同         2
江戸後期(天保6年<1835>頃か)建立。天平16年(744)聖武天皇の勅願で創建と伝える。現在は厄除観音として参詣が多い。水間鉄道は当寺への参詣鉄道として敷設されたもので、今も健在です。
和泉慈眼院多宝塔 1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5(金堂)
金堂と共に文久8年(1271)造立。高さ10.6Mの由。寺伝によると、天武2年(673)天武天皇の勅願によって願成就寺無辺光院として、創建されたと伝える。金堂・多宝塔のある位置は、日根神社の別当神宮寺として、今日まで、存続したようです。金堂(国宝)は鎌倉期の端正な建造物です。
紀三井寺多宝塔 1
  同        2
  同        3
宝亀元年(770)唐僧為光上人によって開基されたと伝え、その後も広く朝野の信仰を集めた名刹です。西国33ヶ所の第2番札所。海を隔て、和歌の浦が遠望できます。特に和歌の浦海禅院多宝塔が印象的です。
紀伊海禅院多宝塔 1
  同         2
  同         3
  同         4(内部)
江戸承応2年(1653)建立。和歌の浦・妹背山のあり、観海楼の背後にそびえる姿で有名である。対岸のはるか紀三井寺(多宝塔)を望む絶景の場所にあります。紀三井寺からも良く見えます。
紀伊長保寺多宝塔 1(左・本堂)
  同         2
  同         3
  同         4(大門)
鎌倉時代末期の様式。1357年建立。本堂(鎌倉)・大門(南北朝)が国宝。長保2年(1000)一条天皇の勅願によって性空上人によって創建と伝える。寛文6年(1666)、紀州徳川家の菩提寺と定められ、広大な地所に歴代藩主等の廟所が造営されている。
紀伊浄妙寺多宝塔 1
  同         2
  同         3
  同         4
鎌倉中期建立。寺伝によると、大同元年(806)創建と伝える。薬師堂(重文)とともに鎌倉期の建築と推定されている。
紀伊道成寺三重塔 1
  同         2
  同         3
宝暦12年(1762)再建塔。安珍清姫の物語で有名。ちょっとした門前町も健在です。

2001/01/04
提供画像

定義如来(西方寺)五重塔 定義如来・西方寺様から画像を提供いただきました。最近の塔婆ですが、純和様木造五重塔です。

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