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日本の塔婆
五重塔・三重塔・大塔・多宝塔・その他


日本の塔婆の全貌は「がらくた」置場「日本の塔婆」でご覧下さい。

我々が前の時代から受け継ぎ、後の時代に伝えていくべきものの一つに、木造建築があります。
木造建造物は、火災(兵火、雷火、盗火等)・気候風土(暴風、雨、雪害、腐朽等)に極めて脆弱です。
日本の気候風土の中で、あるいは幾多の戦乱、仏教の腐敗・形骸化、近くは神仏分離などなどの災害を乗り越え、
千年前後もしくは数百年を経て、今日に伝わっている木造建造物(特に寺院建築群)は、
まさに今日存在していること自体が奇跡的というべきでしょう。
また近年の経済合理主義が有形無形の後世に伝えるべきものの破壊に拍車をかけている時代背景もあります。
以上の意味で、今日伝えられている
木造寺院建築物(勿論そこに同居している仏教美術そのものも同一ですが)は我々の宝というべきでしょう。
後世に伝えるべきものとして、多分数の希少という意味で、「塔婆」はさらに貴重なものといえるでしょう。

日本の塔婆建築の美しさ(木造寺院建築全般ですが)は、
その歴史的かつ気候風土的なもろさ・はかなさを生き抜いてきた力強さと構造(設計思想・木組み等)が
醸し出す気品との奇妙なバランスにあるのだと思っています。
お断り:私に信仰心があるわけではありません。


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過去の履歴(2002年1月5日〜3月3日)

2002/03/28 大和大御輪寺塔推定地1
  同           2
  同           3
  同        旧本堂
三重塔跡は明確ではありません。しかし大和名所圖會に描かれた本堂(大直禰子神社として残されている・重文・奈良時代後期の用材も使われているようです。)および塔前の丸い池は残されていて、その位置関係からおおよその推定は可能です。現在推定地は写真のように草地として保護されています。なお寺門は鳥居に替り、他の堂宇も廃絶していますが、門前の地蔵堂(庵室)は健在です。推定地1:向かって右の金網が丸い池、推定地3:丸い池の北方の木立が推定地
大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より:「三輪大宮・若宮の本地仏堂2宇、三重塔、護摩堂、蔵経堂等あり。慶円法師の開基。」
大三輪寺伽藍図
同三重塔部分図
明治の廃仏毀釈で堂塔の大部は廃絶しました。平等寺と並ぶ三輪社の神宮寺であり、「三輪大宮、若宮の本地仏堂2宇・三重塔・護摩堂・蔵経堂・伽藍神等あり。慶円法師の開基といへり・・」とあり、現在桜井の聖林寺に移されている十一面観音(天平・国宝)は本地仏であったと伝る。
大和平等寺再建予定
    二重塔完成予想図

  同     平等寺古図
  同        現況
三輪山南麓にある三輪明神神宮寺一つとされる。寺伝では聖徳太子建立とし、大三輪寺と称したとする。鎌倉期慶円上人により再興、平等寺と改称し、多くの伽藍が建立されたようです。平等寺古図によると、本堂・鐘楼(二層塔に描かれています)等のほか参道付近に20坊に近い坊舎(今も坊舎跡の地形は明瞭に残されています)もあったようです。しかしながら、明治維新の廃仏毀釈で多くの堂宇が取り壊されたようです。近年、復古調の本堂が再建されたようです。
また2004年は慶円上人中興800年ということで、二重塔(釈迦堂)再建の発願をしているようです。完成予定図を見ると平等寺古図でいう鐘楼に似ています。(参詣時はどなたも不在で詳しいことは分かりません)完成予定:2004年8月1日、総工費:8500万円、設計施工:(株)長谷川寺社建築となっています。
大和妙楽寺十三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
  同        10
  同        11
  同       楼門
  同      本殿1
  同         2
  同         3
  同         4
室町期亨禄5年(1532)再建。唯一の木造十三重塔の遺構。高さ13.2M。相輪は七輪。心柱は2層止まり。本尊文殊菩薩は撤去され、現在は銅円鏡が安置。談山神社神廟として存続。
多武峯寺略記:十三重塔と多宝塔もかっては存在したようです。その他多くの堂宇・院坊が存在した。後天台宗に転じ叡山末となったため、度々南都(興福寺)の焼き討ちを受ける。江戸期に老いても、寺領3000石、42坊を数えたとされる。明治維新の神仏分離では一山は寺院派と神社派に割れたが、神社となることに決し、談山神社となる。主要仏堂は神社として存続したが、多くの院坊は廃絶し、今なお多くの院坊跡を見ることが出来る。またこの時、多くの仏像・仏具が棄却されたようです。
大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より:多武峰十三重塔(部分図):談山妙楽寺護国寺と号する。諸文献では塔婆は定恵和尚の草創で、妙楽寺の根本とされる。地底に大織冠(鎌足)の遺骨を収めたとされる。本尊は文殊菩薩。多武峰全図
参考:木造十三重塔は、文献上、かっては高山寺・興福寺四恩院・長谷寺・笠置寺等に存在したことが知られています。
什宝として粟原寺三重塔伏鉢(国宝)などを有する。
また名称・機能を変えて、東大門、聖霊院(本殿・重文)、護国院(拝殿・重文)、楼門(重文)、講堂(神廟拝所・重文)、常行三昧堂(権殿・重文)、総社本殿(重文)、総社拝殿(重文)、東西宝庫(いずれも重文)、本願堂(東殿・重文)、比叡神社(重文)、観音堂、増賀堂などが残存している。
大和安倍寺塔土壇1
  同        2
  同     隅礎石
「仲麿屋敷」と称する方形の土壇(方15M)が塔跡で、東方の土壇が金堂跡、北方の土壇(未調査)が講堂であろうとされる。昭和42年の発掘で、中門、塔、金堂跡が判明し、法隆寺式の伽藍配置とされた。当寺は孝徳天皇勅願あるいは阿倍倉橋麻呂の創建と伝えられている。
現状は史蹟公園として整備され、塔および金堂土壇が美しく復元されている。塔跡には隅柱礎石は一個残されているのみです。
大和山田寺跡
  同  説明板1
  同      2

塔・金堂・講堂が南北に並ぶ伽藍配置であるが、講堂は回廊外に配置されている伽藍配置と判明。1937年、興福寺東金堂本尊台座下から発見された金銅佛佛頭は、興福寺衆徒によって強奪された、山田寺講堂本尊であったとされる。また1982年の発掘調査では倒壊した東面回廊が発見され、最古の木造建築とされていることでも有名。塔と金堂は12世紀後半に焼失し、講堂も12世紀末に焼失したと推定されている。
塔跡一辺12Mの土壇で四周の中央に幅3Mの階段がある。心礎と西北の四天柱礎石が原位置を留めるとされる。昭和51年の発掘調査で心礎は地下1Mで発見された。1,7M×1,8M高さ84Cmで蓋受孔は径30Cm深さ3Cnm、舎利孔は径23Cm深さ15cMとされる。塔の一辺は7.2Mと判明。

大和川原寺塔跡1
  同      2
  同      3
  同  再建心礎
  同  再建礎石
  同  瑪瑙礎石
  同  放置礎石
  同  創建心礎
発掘調査により、1塔2金堂形式の伽藍配置が確定。中金堂の南東に塔・南西に西金堂が配置され、塔と西金堂は対面する配置であった。(すなわち南大門・中門・中金堂・講堂が中軸線上に並び、中門と中金堂の西に西金堂、東に塔婆が対峙する配置を採る。)塔は天智天皇によって創建され、この塔は建久2年(1191)に焼失。その後13世紀後半に再建され、おそらく慶長年間前後に焼失し、その後再建されることは無かったとされる。塔跡には心礎・四天柱礎3個・側柱礎10個が残されているが、これは鎌倉期の再建時の礎石とされる。創建時の心礎は地下1.1Mのところで発見され、2.5M×1.9M×76Cmで径1,03M深さ60Cmの孔を持つとされる。また地下から四天柱礎1個、側柱礎6個も発見された。塔基壇は壇上積みで一辺11.7M、高さ1,5Mの立派なもので、塔の一辺は6M(再建塔と同じ)とされる。
中金堂跡には弘福寺(豊山派)が現存し、その境内には瑪瑙の礎石が残されている。
大和橘寺塔跡1
  同     2
  同     3
  同   心礎1
  同      2
珍しく、東面する四天王寺式伽藍配置をとる(ただし講堂が回廊外配置とされるため山田寺式ともされる)。聖徳太子創建と伝える。久安4年(1148)三重塔が焼失(雷火)し、再建に建仁3年(1203)まで要する。永正2年(1505)多武峰の衆徒の焼討ちでほとんどの伽藍を焼失。塔心礎の柱座は美しい形で知られている。心礎は地下1.15Mにあり、その状態は観察できる。心礎は1.9M×2.8Mの長方形の花崗岩で、中央は一段高く掘り出され、その中心に径89Cm深さ9Cmの円柱孔があり、円柱孔を囲み3つの半円状の副え柱孔が穿られている。いずれも円形柱座を持つ側柱礎は8個、四天柱礎2個が現存。塔の一辺は6.97M、基壇の一辺は13.3Mとされる。
大和岡寺三重塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
大乗院日記目録の文明4年(1472)7月31日条:「夜前大風・・・竜蓋寺塔婆顛倒・・・」とあり、それ以来五百有余年後(昭和61年)に、三重塔が再建されたようです。本格的な復古調の木造塔です。当寺は出土瓦から8世紀初頭の創建(寺伝では663年義淵僧正の開山とする)とされるが、伽藍配置は不明。現在の姿は近世の再建になる。現在は西国観音7番札所。
大和飛鳥寺塔跡 法興寺、本元興寺。発掘調査により、1塔3金堂形式の伽藍配置が確定。
すなわち塔を中心にして、北に中金堂、東西に東金堂・西金堂が建ち、この区画は回廊で囲まれ、南に南門・中門、北に講堂を持つ伽藍配置であった。塔は建久7年(1196)落雷によって焼亡し、中世には全ての糧物が失われてと伝えられる。1957年塔の中央部を発掘調査、日本最古の舎利を発見。鎌倉時代に舎利を再埋納した舎利であった。心礎は地中2.7Mの位置にあるようです。現地には心礎の有る位置を示す「標」があるだけです。
心礎は2,6M×2.4M×62Cmで中央部分は削平され、中心に一辺33Cm×30Cm深さ21Cmの方孔が穿孔され、その下部に舎利孔および鎮檀具孔がさらに穿孔されていたとされる。
大和奥山久米寺跡1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
四天王寺もしくは山田寺式伽藍配置をもつとされる。塔跡と礎石(四天柱礎4個、側柱礎6個)が保存され、心礎の位置に十三重石塔(鎌倉期?)が残されている。そのため心礎については確認がなされていないようです。寺暦についてはほとんど資料がなく、詳細は不明です。なお塔の一辺は約7Mを測る。
大和大官大寺塔跡

大和大安寺の前身。中門・金堂・講堂が直線上に配置され、回廊内の東に塔が配置され西の対面には堂塔は配置されない伽藍配置をとる。発掘調査結果、その規模は群を抜いて大規模な伽藍と判明(南北370M、東西250M)。塔は方5間の九重塔であったと伝えられる。現状は田畑の中に塔跡土殿と金堂跡土壇がポツンとのこされ、巨大な史蹟碑2ヶが立つのみです。
★宝暦元年(1751)「飛鳥古跡考」:「字講堂・・礎四十四。・・南北九間、東西二十間。・・塔礎、真柱ノ礎一ツ方七間。・・・・・又塔の礎なとよのつねの物にあらす。・・・」
★大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より:挿絵はありません。記事:「小山村に礎石あり。・・・またこのほとりに塔の礎あり。心柱などの石、よのつねのものにもあらず。」
心礎などの礎石は明治期まで残されていたようですが、明治22年橿原神宮造営の際に搬出されたという。おそらく礎石は割られたものと推測できます。

大和西隆寺塔跡1
  同       2
  同 現地説明板
  同 現地伽藍絵図
昭和46〜48年の発掘調査で金堂・塔・東門跡などが発見され、塔跡は第一勧銀裏に保存されている。西大寺伽藍絵図(元禄11年の古絵図を転写したものとされる)の一画に当寺の伽藍がある、それによると、南大門をはいり、東に三重塔、南大門北に楼門、金堂、講堂が直線上に並び、楼門(中門)から回廊が金堂に取り付く配置であったようです。東西・南北とも約250Mの寺地を占めたとされる。
大和西大寺東塔跡 2002年12月3日撮影画像に追加
2002/03/23 摂津井植山荘
旧白毫寺多宝塔跡1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
残念ながら、2002年3月19日から20日の山火事で類焼し完全に焼け落ちました。焼失面積は30Haを超えるようですから相当な大火と思われます。ほんの数秒ですが、TVのニュースで焼け落ちる映像が放映されました。
多宝塔は通称「井植山荘」内にあり、室町中期の建立と推定される、旧大和白毫寺塔であった。大正6年に寺を流出し、ここに移建されたとされる。山荘は昭和24年に藤田氏より譲り受けたもののようです。
山荘の建物は最明寺瀧への分岐から満願寺へ至る道の途中にあり、道の南に山荘の建物、道の北側の山の中腹に多宝塔はあった。この地点から多宝塔は微かに見えたそうです。またさらに北西の山頂からも上層は見えたそうです。(通常は非公開であった由)
山火事は西および北から舌状に塔婆に迫ったようで、丁度火災の舌の先端が多宝塔を舐めた形で、焼失したようです。塔婆から東・南は類焼しておらず、誠に残念なことです。
23日の現状は焦臭が漂う中に、おそらく何らかの修理のための足場だけが残され、現場は墨の山で、その中に炭化した柱もしくは足場の板が散乱、露盤・伏鉢・請花は落下、若干の壁土、銅板?(何かの金具?)等が散乱していました。九輪のみは足場に倒れそこに引っかかり中空に残っていました。
「日本の塔総観」によると、一辺3.23M、高さ14.8M、桧皮葺き、中央間板唐戸、脇間連子窓、斗栱は出三斗、二重繁垂木、内部は四天柱・須弥檀・安置仏はなく空であったとされる。
図10:壁土、図11:隅礎石と亀腹、図12:銅板?
摂津藤井寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
この塔婆は伸和建設様「資料集」で知りました。
伸和建設資料集」より:伸和建設の手になる。平成13年完成。
三重塔 平面図 免震装置を4基使用。和様の本格的な木造塔婆です。一辺2.716M、高さ12.682M。白木、銅板葺き。
当寺は城山(地名から城郭もしくは館があったであろう)の小高い丘に立地しています。寺暦についてはご住職によると、享保年間尼崎本興寺日軌(旁の「九」は上に出ないそうです)上人の開基という。明治に日傳上人により中興、また京洛本能寺中興(藤井寺24世)日宏上人との関係もあったようです。おそらく現在も熱心な信者を抱え、その人たちのご助力もあり三重宝塔は完成したものと推測できます。上記のように法華宗八品派(日隆門流)です。
摂津長谷川邸
旧開化寺三重塔1
  同      2
  同      3
  同      4
  同      5
  同      6
江戸初期建立。元伊賀開化寺の塔。昭和初年当地に移建。一辺2M。三層目の軒は垂木ではなくて雲型彫刻を施した板軒で、肘木も雲型になっているようです。現在非公開で、外から覗うしかありませんが、三層目の細目は覗うことは出来ます。邸内は倒れた石の構造物や傾いた茅葺門などが散見されますが、塔婆は健在のようです。懸念されるのは(近くの井植山荘塔婆のように)火災で、どうか焼失など無いように願うばかりです。
元開化寺西の浄瑠璃寺(廃寺)の塔を開化寺が引取り。松材のため虫食いがひどく、明治末に塔は転売。転売された塔の行方は亡として分からなかったが、中西亨氏の調査の結果、大阪住吉から神戸の長谷川関雪邸に昭和初年に移転再建されたことが判明。なお大正4年、跡地には同寸の三重塔が建立されている。
山城成願寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
この塔婆は伸和建設様「資料集」で知りました。
伸和建設資料集」より:伸和建設の手により完成しています(2002年3月現在)。2002年3月に落慶法要があるようです。平面図
一辺3.024M、高さ10.711M。石山寺塔婆をモデルにしたようで、規模は約2分一のようです。和様の木造塔です。彩色、銅板葺き。木割はキャシャな印象を受けます。おそらく忠実に2分一ということでそういう印象を受けるなら、材の寸法は大胆に変更すべきなのであろうかと思います。
当寺は北野天神の七保(道真の隋従者が造営した天満宮御供所=北野神人)の七ノ保社を起源とし、道真自作の十一面観音(現在は西運寺に遷座)を祀り、成願寺と号した。元禄2年(1689)三井両替商の番頭・吉崎傳右衛門(教仏坊日行、大本山妙連寺日貞上人に師事)が三井家を檀越とし、法華宗として再興した。以降三井家祈願所となり、隆盛期を向かえる。明治の廃仏毀釈で破壊され、社殿・拝殿は天満宮に移される。明治10年本堂再興(妙心寺禅堂という)さらに宗祖700年遠忌で現本堂を新築。上記のように法華宗妙連寺の門流です。
山城仁和寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
2001/2/10撮影画像に追加
山城広隆寺心礎1
  同      2
  同      3
楼門東南に「太秦広隆寺」の標石があり、この標石の台石に心礎が転用されている。
この心礎は元講堂の西45Mほどにあったとされる。
「日本の木造塔跡」によると、心礎は2.4M×2M×85Cmで中央に径90Cmの穴の跡がある。(穴はコンクリートが詰められていて見ることは出来ない)。おそらく延暦年間に(北野廃寺からと推定される)移転した当時の広隆寺五重塔心礎と考えられている。(塔頭十輪院三重塔との説もある)
当寺は推古31年(623)聖徳太子の菩提にため秦河勝が建立したと伝える。
2002/03/23 摂津井植山荘
旧白毫寺多宝塔跡1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
残念ながら、2002年3月19日から20日の山火事で類焼し完全に焼け落ちました。焼失面積は30Haを超えるようですから相当な大火と思われます。ほんの数秒ですが、TVのニュースで焼け落ちる映像が放映されました。
多宝塔は通称「井植山荘」内にあり、室町中期の建立と推定される、旧大和白毫寺塔であった。大正6年に寺を流出し、ここに移建されたとされる。山荘は昭和24年に藤田氏より譲り受けたもののようです。
山荘の建物は最明寺瀧への分岐から満願寺へ至る道の途中にあり、道の南に山荘の建物、道の北側の山の中腹に多宝塔はあった。この地点から多宝塔は微かに見えたそうです。またさらに北西の山頂からも上層は見えたそうです。(通常は非公開であった由)
山火事は西および北から舌状に塔婆に迫ったようで、丁度火災の舌の先端が多宝塔を舐めた形で、焼失したようです。塔婆から東・南は類焼しておらず、誠に残念なことです。
23日の現状は焦臭が漂う中に、おそらく何らかの修理のための足場だけが残され、現場は墨の山で、その中に炭化した柱もしくは足場の板が散乱、露盤・伏鉢・請花は落下、若干の壁土、銅板?(何かの金具?)等が散乱していました。九輪のみは足場に倒れそこに引っかかり中空に残っていました。
「日本の塔総観」によると、一辺3.23M、高さ14.8M、桧皮葺き、中央間板唐戸、脇間連子窓、斗栱は出三斗、二重繁垂木、内部は四天柱・須弥檀・安置仏はなく空であったとされる。
図10:壁土、図11:隅礎石と亀腹、図12:銅板?
摂津藤井寺三重塔 掲載予定
摂津旧開化寺三重塔 掲載予定
山城西願寺多宝塔 掲載予定
山城仁和寺五重塔 掲載予定
山城広隆寺心礎 掲載予定
2002/03/09 大和興福寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同   北円堂1
  同       2
2000/8/18撮影画像と入替

北円堂は国宝

大和興福寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同   東金堂1

  同       2
2000/8/18撮影画像に追加

東金堂は国宝

大和春日西塔跡1
  同       2
  同       3
  同  東塔跡1
  同       2
2000/8/18撮影画像に追加
大和東大寺西塔跡1
  同        2
  同    東塔跡1
  同        2
大和東大寺東塔心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同   南大門1
  同       2
西塔跡・東塔跡画像:2000/8/18撮影で入替
東塔心礎1:西南役陣亡陸海軍人の碑、東塔心礎2〜5:心礎、東塔心礎6:その他の礎石。
以下「日本の木造塔跡」による。
南大門を入って右手に「西南役陣亡陸海軍人の碑」(明治26年建立)がある。この碑の土台には多くの石が積み上げられている。その中に東塔心礎と推定される礎石が2つに割られて混ざっている。出枘の径は99Cm・高さ29Cmで、さらに出枘の上に幅15〜9Cm高さ9Cmの突起がある。柱座と思われる平滑な面も認められ、その径は185Cmを測る巨大な心礎の残欠です。心礎残欠の外に数点の側柱礎と思われる礎石も混在している。無残なことをして碑が建立されたようです。なを藤田美術館に東大寺東塔心礎と称する礎石がある。この心礎は別の塔の心礎であるかまたは東大寺東塔の側柱礎であるかであろう。
南大門:大仏様斗栱の典型として収録
大和円成寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同 大日如来1

  同       2
  同  多宝塔扉1

  同        2
  同        3
  同 春日・白山堂1

  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同  宇賀神堂1
  同        2

  同       本堂

  同       楼門
多宝塔:平成2年再建塔。本尊は高名な大日如来(国宝・運慶作)が遷座。創建は後白河法皇の寄進。応仁の兵乱で焼失。2代目多宝塔は大正9年鎌倉に委譲。
寺伝では天平勝宝8年(756)聖武・孝謙天皇の勅願により、唐僧虚瀧和尚の創建とする。その後万寿3年(1026)命禅上人が十一面観音を祀る。天永3年(1112)迎接上人が阿弥陀堂を建立。ついで仁平3年(1153)仁和寺の寛遍僧正が東密化した(忍辱山流)。応仁の兵乱で堂塔の大半を焼失。江戸期には、寺領235石を安堵され、寺中23坊を有したとされる。現在は阿弥陀堂(本堂、重文、文正元年<1466>再建)・楼門(重文、応仁2年<1468>再建、現在修理中)・春日堂・白山堂 (国宝、安貞2年<1228>) ・宇賀神堂(重文、鎌倉)・拝殿・鐘楼・護摩堂・庫裡(観音堂跡地)と浄土式庭園を有する。
山城岩船寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同        10
  同        11
  同        12
  同        13
現存塔は南北朝期弘和2年(1382)建立。塔創建は、承和年中(834-47)、仁明天皇が智泉大徳(天長2年<(825>没、灌頂堂・報恩院を建立、弘法大師の姉の子)の遺徳を偲んで建立したと伝える。近年(2001年)修理が終わったばかりのようです。西方に浄瑠璃寺あり。木津川を越えた山塊の南山腹に海住山寺五重塔あり。
寺伝では天平元年(729)聖武天皇の勅願で、行基菩薩によって創建されたとする。最盛期には16町四域の境内地に39坊があったという。承久の乱によって大半が焼失。本堂は老朽化のため、昭和63年に再建。以下いずれも重文。白山神社本殿(室町)、十三重石塔(南北朝期)、不動石龕(鎌倉)、地蔵石仏(鎌倉)、五輪石塔(鎌倉)などを残す。
創建当時は門扉・板張りの壁等に水天・羅刹天・16羅漢像等が極彩色で描かれていたようで、復元図が山城郷土資料館で公開された。
山城浄瑠璃寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同  九体阿弥陀堂
平安中期建立。現存する2基の平安期三重塔のうちの1基(播磨一乗寺塔)。治承2年(1178)京都一条大宮から移建。元の寺名は明らかでないが世尊寺ともいわれている。東方に岩船寺あり。木津川を越えた山塊の南山腹に海住山寺五重塔あり。
当寺の創建については、諸説がある。いずれにしろ阿弥陀信仰の高揚によって隆盛に向かい、嘉承2年(1107)に阿弥陀堂が建立され、久安6年(1150)には苑池が穿たれ、その後も十万堂(真言院)、楼門、経蔵、南大門、護摩堂など多くの堂宇が建立された。康永2年(1343)失火により全山焼失。本堂(国宝)は藤原期の現存する唯一の九体阿弥陀堂の遺構とされる。本堂中には国宝・重文指定の多くの優れた仏像が残されている。
山城燈明寺鐘楼跡
 同 御霊神社蟇股1
 同         2
鐘楼跡石垣です。この上方(南側平坦地が三重塔跡です。
参考資料:御霊神社蟇股です。
都名所圖會より:加茂東明寺(全図)  加茂東明寺伽藍

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